日々雑感

日々思うことの備忘録です.

ヴァイオリンのレッスン日記 2019-12

月に1度のヴァイオリンのレッスン記録もこちらに書きとどめておくことにする.

今月の前半はゴセックのガヴォット.この曲はもう半年ぐらいやっているが,いつまでたってもうまくならない.練習していてうまくいったりいかなかったり波があるのだが,あとから考えると,うまくいっていないときは,身体の動かし方を意識的にコントロールしようとしている.意識的にコントロールしようとすると余計な力が入る.しかし,この「力が入っている」ことがなかなか自覚できない.レッスンでは,このことに気づかされて「なるほど」と思うことがしばしばである.

今回のポイントは,スタカートの響きを良くするには,弦を鋭く擦ろうとするのではなく,むしろ,力を抜いて(力を抜くことで身体が動きやすくなる)弓を大きく動かす方がよいということ.

もう一つは,弓を飛ばすときには,弓を親指の力だけでコントロールしようとせずに,5本の指すべてを参加させること.要はシナジーである.

どちらも頭ではよくわかっていることだが,いざ実践となると意識が回らなくなる.

最近思うのは,弓や弦の柔らかさを感じることの重要性である.弾き始める前に弓が弦にタッチする際の一瞬の感触.このタッチの瞬間はほんの一瞬で,それを意識的に感じている時間はほとんどないのだが,それでもこのタッチの感覚があるときはだいたいうまくいっている.逆にいえば,力が入っているときにはこの感触が感じられなくなっていることなのだろう.

うまくいかないときはタッチの感触のことを思い出すようにしている.

東海道新幹線

先日,出張で東海道新幹線を使ったときに気づいたこと.

新幹線を利用するときは,事前に電子的に予約するのだが,なにぶん考えが古い人間なので,予約した列車の出発ぎりぎりに東京駅に到着するのは怖くて(遅れそうになれば後続の列車に予約変更すればよいだけなのだがそういう気にならない),いつも出発時刻の30分ほど前には到着している.過密ダイヤの新幹線は,折り返し列車が到着し車内清掃をすると車内に乗り込めるのが出発5分ほど前ということがよくある.車内に乗り込めるまでホームで列に並んで待っているのは(騒音レベルは相当なものだし)つまらないので,目的の列車が入線するまでどこかで待っていようかということになるのだが,待合室はどこも混雑していて落ち着かず,本を読もうと思ってもなかなかゆっくりできない.

ところが,先日乗った17:23発ののぞみ号は,17:00ごろにはすでに入線していて,17:05ごろには乗り込むことができた(向かいのホームの17:20発ののぞみ号も17:00過ぎには入線してすぐにドア扱いをしたのでこちらも15分ぐらい前に乗り込めたのではないかと思う).そんなわけで,先日は乗客が少ない車内でゆったり本を読むことができた.もし時間の都合があえば,次回もこの列車を予約することにしよう.

読書録:「こころ」はいかにして生まれるのか

「こころ」の大きな要素である感情や情動が生まれるメカニズムについて神経科学の観点から平易に説明したブルーバックスの一冊である.

たしかに「こころ」がテーマではあるのだが,脳全体の仕組み,特に,大脳皮質の奥にある大脳辺縁系を中心とした脳全体の働きを概観する内容で,これらの仕組みを手早く読むには適した本だと思う.

amazonへのリンク:https://www.amazon.co.jp/dp/4065135222

ヴァイオリンの習得

ヴァイオリンを習い始めてからもう8年になる.なかなか上手にならないが,それでも毎年確実に上手になっていることも確かである.練習していて思うことはいろいろあると,今日はそこから二つについてメモを残しておきたい.

一つは,練習の短期的成果を期待しなくなったということである.どんな技能でも,練習しているあいだに上手になったという感覚があることはうれしいことである.しかし,ヴァイオリンの練習をしていて,練習しているあいだに目に見えて何かが上手になるということはほとんどない.その点で,練習しようというモティベーションを維持するのは難しいといえるかもしれない. このように,練習していて1日1日の伸びはほとんど見えないのだけれども,それを1週間,1か月と続けていると確実に上手になっているのである.目に見える伸びはないけれども,伸びることを信じて練習していると伸びるということである.この経験は「目に見える成果がないことに対する焦り」を取り除くという点で,私にとって少なからず大きな影響を与えたといえる.

もう一つは,新しいテクニックに挑戦するタイミングということである.一般に,新しいテクニックについて練習するためには,その土台となるテクニックができていないとだめだということは容易にわかるだろう.しかし,その一方で,新しいテクニックの練習を始めることでその土台となるテクニックが改善するということを何度か経験してきた.

ポジション移動というテクニックを例にあげてみよう.ポジション移動とは,楽器から出せる音域を変化させるために,弦を押さえる手指の位置と楽器の軸方向に平行移動させる動作である.これができるためには左手を自由に前後方向に動かせないといけないので,左手に頼ることなく肩だけで安定して楽器を構えることが必要である,しかし,私には,それまでの練習の過程で,弦を押さえる指と対向するために人差し指の付け根部分で楽器を下から支える癖がついてしまっていて,それがなかなか解消できなかった.そういう状況で,ポジション移動の練習を始めたのであるが,しばらく練習をしていると,の悪い癖が解消して,左手全体の姿勢が大きく改善したのである.これは,いってみれば「必要は発明(習得?)の母」ということである.ポジション移動のためにはそれに適した左手の姿勢をとる必要があるので,ポジション移動の練習をしているあいだに左手の姿勢がそれに適した姿勢に変化したということである.

同じことは,元弓での演奏やスタカートの練習についてもいえる.初心者は,元弓(弓の根本)で弦を弾くと汚い音が出やすいので,元弓で弾くのが怖いと思っており,弓のコントロールがある程度できるようになってから元弓で弾くことに挑戦する.そして,いったん元弓での練習を始めてしばらくするうちに元弓での力のかけ方にだんだん慣れてくるのであるが,それと並行して弓のコントロール技術が上がっていくのである.実際,私の場合,それ以前に練習していた曲を久しぶりに弾いてみて,音色が良くなっていることに気づいてびっくりしたぐらいである.これも「必要は習得の母」である.「自分はまだ弓がコントロールできていないから元弓に挑戦するのは早すぎる」といって挑戦しないでいると,この経験ができなくなってしまう.

とはいえ,やみくもに難しいテクニックに挑戦しても,これはこれで失敗してしまうであろう.新しいテクニックに挑戦するのにちょうどよいレベルやタイミングというのがあるはずである.いってみれば,「自分の能力よりもちょっと難しい程度のテクニックに挑戦する」というのがちょうどよいということになるのだろう

 

試験監督

仕事柄,年に何回か試験監督をする機会があるが,そのたびに思うことは,ふと顔をあげた学生と目があうということである.

これはなんでもないことのようにも思えるが,意外と不思議なことである.というのも,別のその学生のことをずっと見ていたわけではないからである.ある学生をずっと見ていてその学生が顔を上げた瞬間に目が合ったわけではない.試験室全体をぼおーと見ているにもかかわらず,顔を上げた学生と目が合うからである.

このようなことが起きる(できる)のはなぜだろうか? 考えられる一つの理由は,人間の無意識の処理過程が,周囲と違う振る舞いをしている学生を検出してそこに対して視線を向けさせている,ということである.つまり,その学生に視線を向ける動作そのものは無意識のうちに行われているので,ふと気づくとその学生と目があったように感じられるということである.これは,視覚探索におけるポップアウト現象とも関連しているのかもしれない.いずれにしても,そこに目をむけさせているのは無意識の働きではないかということである.

これとよく似たことは,自動車を運転しているときに危険を察知する場面である.何年も運転していると,たまに,急に飛び出してきた自転車にぶつかりそうになるなどヒヤッとする経験をすることがある.これは本当に肝を冷やす体験であるのだが,一方で,自転車にぶつかる前にそのことに気づいたということは,自分はその危険を察知できたことを意味している.それなのにヒヤッとするのは,意識のレベルではそのことに気づいていないかったからである.なぜなら,あらかじめ自転車に気づいていたすればヒヤッと感じることはないだろうからである.それでも,自転車が飛び出してきたことに気づいたのはやはり無意識の処理系の仕業ではないだろうか.意識にのぼらない視覚情報処理系が景色の中に予想していない刺激が急に出現したことを検出して,そこに視線を向けさせたのではないか,ということである.

ここに書いたことは私の単なる想像であって根拠のあることではない.しかし,もしここに書いたように,無意識のシステムの働きが人間の生活の中で重要な働きをしているのであれば,そのシステムが十分に働けるような状態を保つことが大事なことだということになろう.

読書録:測りすぎ-なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?

「測りすぎ」というタイトルをみて,これはいったい何について書いた本だろうと思うが,これは,学校での教育や大学での研究,医療や警察などの公共の現場に定量的評価を持ち込むとどのような弊害が生じるかを明快に論じた本である.

わかりやすい例をあげれば,多様な機能を担っている組織で特定の定量化指標を定めるとその指標に定められたものだけが優先されてしまうようになること,また,仮に多数の機能についてそれぞれ定量化を行おうとすると,そのデータの取得のために本来は不要な人的・時間的コストがかかるようになることといった具合である.

世の中,特にビジネスの世界では定量化することの重要性が説かれるが,定量化がうまくいくにはそれなりの条件がある.著者は,定量化(測定)を行ったときに意図していなかったよくないことが起きているにも関わらず,測定が重要だと信じることを「測定執着」と呼んでいる.そして,測定執着が生じる背景的要素として,次の3点をあげている.

  1. 個人的経験と才能に基づいておこなわれる判断を,標準化されたデータ(測定基準)に基づく相対的実績という数値指標に置き換えることが可能であり,望ましいという信念
  2. そのような測定基準を公開する(透明化する)ことで,組織が実際にその目的を達成していると保証できる(説明責任を離している)のだという信念
  3. それらの組織に属する人々への最善の動機付けは,測定実績に報酬や懲罰を紐づけることであり,報酬は金銭(能力給)または評判(ランキング)であるという信念

本書の議論はきわめて合理的で読みやすく,あっという間に一冊読んでしまえる本である.学校や公共機関の評価に携わっている人にはぜひ読んでもらいたい.

amazonへのリンク:https://amzn.to/33EYKYE

ヴァイオリンが6本になった

知人がヴァイオリンを捨てる(!)というので,どうせならということでもらってきた.大人用4/4と子供用3/4の合わせて2本,どちらも鈴木の入門用だったので特に高価なものではないが,いくら何でも捨てるということはないだろうと思う.

これで私の手許にあるヴァイオリンは総計6本になった.習い始めるときに親戚から譲ってもらったもの(鈴木),子供が習い始めるときに買ったもの(ドイツ),私が習い始めて2,3年目に買ったもの(イギリス),親戚が亡くなったときに譲り受けたもの(確かイタリア),それと今回もらった2本あわせて6本ということである.

今回もらったものは自分で手をいれていろいろと実験してみたいと思っている.