日々雑感

日々思うことの備忘録です.

自己観察・自己分析

私は,ふだんから自分が何かを感じたときや思ったときに(正確には,知覚を得たり感情を抱いたりしたときに)なぜ自分がそのように感じ,そのように思ったのかを分析する習慣がある.これは仕事柄ということではなく,こういう習慣があるからこういう仕事に就いたという方が正しい.

知覚の話でいえば,前に書いた「試験監督での経験」の例がそうである.感情についても「自分はいまこう感じている(怒っている,うれしい,悲しい,不愉快だ)けれど,その原因はここにある」ということをすぐに内省している.この作業は,自分の心持を安定させるうえで大きな意味をもっている.

他の人はどうだか知らないが,私の場合「何となく不安である」とか「何となく不機嫌である」といった状態はとても気持ちが悪い.だいたいそういう場合には,頭のどこかに引っかかった感じがずっと残っている.しかし,私にとってそれは一種のアラートである.つまり,無意識の系から「解決していない問題があるからそれを解決せよ」というシグナルが送られているということである.そこで,こういう場合は,その「引っかかった感じ」の原因となったことを探すことになるのだが,やがてその原因がはっきりすると心持がすっきりする.その不安や不愉快の原因がたとえ解消できないものであったとしても「原因が特定できる」と気持ちの悪さは解消する.

これは心理学というような類の話でなくて,単に,感情・情動を引き起こした原因を探す作業である.

 

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ブルーオーシャン・レッドオーシャン

あらためて説明するまでもないことだが,レッドオーシャンとはすでに開拓されていて競争相手が多い市場,ブルーオーシャンとはまだ競争がない未開拓な市場である.これらの言葉はもともと企業の経営戦略論の中で使われるようになった用語であるが,学術研究の分野でも同じことがいえる.

イオニアによって新たな問題が発見・定式化され,その解決の道筋が見えてくるとその問題に参入する研究者が増えてくる.学会や研究会でその問題に関する発表が増え議論が盛り上がってくると,それがさらに多くの研究者のひきつけ,さらなる発見や高い成果を求めた競争が展開される.これが学術研究におけるレッドオーシャンである.レッドオーシャンに参入することには研究者にとってさまざまなメリットがある.まず,研究をを開始するのに必要な情報がすでに出回っているので,比較的容易に参入すできることである.また,研究が盛り上がって社会からの認知度が高まると,産業界からの注目が増えて共同研究が増えるだけでなく,多くの場合その問題に的を絞った国の特別な研究費枠ができるので研究資金が豊富になる.さらに,学会誌や論文誌には特別セッションや特集号が組まれ,成果を発表しやすい環境が整う.同業者が増えれば互いに論文を引用される回数も増えるから,業績評価における数値指標重視(論文本数や引用回数)の風潮の中では点数稼ぎをするにもよい.レッドオーシャンは多数の研究者と競争する点で厳しい環境ではあるが,一方で,まとまった研究費を調達し業績を積み上げていくうえでやりやすい環境なのである.皮肉な見方をすれば,機転の利く研究者であれば,世の中で流行っていることを観察してその潮流に乗ることで,自分で新しい問題を開拓・発見しなくても業績を上げていくことができる(これはビジネスと同じである).

一方,ブルーオーシャン戦略というのは,ほかの研究者が目をつけない問題を発見してほぼ独力で研究を進めていくというスタイルである.「みんなが必死で研究している問題を研究しても優秀な人には勝てないから,ほかの人がやらない研究テーマを選んだ」という話をよく聞くが,これはブルーオーシャン戦略で成功した研究者の言である.こちらは,研究者の数が少なく競争が激しくないという点では楽かもしれないが,同じ研究をしている研究者が少ないということは,研究環境としては必ずしも便利でないし(例えば,道具や材料を入手しにくい),社会的に認知されていないので研究費がとりにくいし論文も採択されにくい(その研究を理解してくれる人が少ないし,発表する場も乏しい).それ以上に,ほかの研究者が目をつけないということは,そこに「鉱脈」があるかどうかよくわからない(挑戦しても意味がないかもしれない)か,あるいは,仮に鉱脈があったとしてそれを掘り当てるのが極めて難しいことを意味している.その中でその研究をあえて進めていくには孤独に耐えて努力を積み重ねていく底力が不可欠である.しかし,いったん成功すれば,競争相手が現れてくるまではその研究者の独壇場であるし,その分野のパイオニアとして後世まで名が残る.

自分はどちらなのかといえば間違いなくブルーオーシャンに近いのだが,ただ,最近になって,自分のやり方はブルーオーシャン戦略とも違うのではないかと思うようになった.何が違うかといえば,ほかの人がやらない研究テーマを選ぶ理由が「ほかの人と同じことを研究しても優秀な人には勝てないから」ではないことである.自分には,そもそも「競争に勝つこと」を目的として研究テーマを選ぶという発想はまったくない.自分の場合,ほかの人が研究していないテーマを選ぶのは「ほかの人がやらないことを補う」という感覚なのである.逆にいえば,ほかの人が研究しているテーマを選ばないのは,ほかの人がすでにやっているなら自分がわざわざやらなくてもいいではないか(ほかの人がやってくれているんだから)という感じである.

この「補う」という感覚,こういう感覚で研究をしている研究者はほとんどいないだろう(これが以下に張り付けた過去記事に書いたことの一例である).ただ,こう言う感覚は自分の良さであると同時に悪さでもあるのだと思う.というのも,ほかの人が考えないある問題を見つけてその中の面白い部分(問題を定式化してその例を解決する部分)を解決してしまうと,その問題をさらに追及することに興味を失ってしまうからである.これは.問題の定式化が終わってしまえばあとは私がやらなくてもよいだろう(だれかがその続きをやってくれるだろう)と思ってしまうためである.そんなわけで,私の研究には一つの問題を徹底的に追及して完成させたという業績がない.逆にいえば「つまみ食い」になっているということである.これは「自分の城を築く」という科学者の王道をいくうえで最悪の戦略である.

ただ,あえて強調するとすれば,自分には「研究」を「競争」ととらえることに違和感があることだけは間違いがない.科学の知見(人類の知恵?)を積み上げていくうえで,ほかの人よりも,また,ほかの国よりも早く業績を上げることにどんな意味があるのでだろう.いろいろな研究者がいろいろな問題を分担して解決していけばよいではないか.このことについてはまた別の機会に述べたい.

 

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読書録:「皮膚感覚と人間のこころ」

皮膚感覚の生理メカニズムを専門とする著者による著作である.身体技能を実行するうえで,皮膚感覚は本質的に重要な役割を果たしていることはいうまでもない.皮膚感覚は環境の中での自分の状況や,他者(人であれ物体であれ道具であれ)の状態を知るうえで,多様なじょうほうを提供してくれている.そのメカニズムについてあらためて勉強してみようと思って読んだのが本書である.実際,皮膚感覚がもつさまざまな側面について最新の知見をわかりやすく紹介したもので,いろいろと勉強になった.

一番勉強になったのは,皮膚への機械刺激を受容するメカニズムについてである.かなり以前に,人間の触知覚メカニズムに興味をもち,皮膚のセンサ構造を参考にして手触り感を識別するセンサシステムを構築するという研究をしたことがある.このときに勉強した内容は,皮膚の中には時空間特性の異なる4種類の機械受容器があり,それらの情報が総合されて触覚がもたらされるということであった.最近でも,触覚に関する解説記事ではそのような説明がなされていることが多い.しかし,著者らの研究によれば,表皮に含まれるケラチノサイトという細胞が微小な機械刺激に対して反応し,その出力が神経線維に伝わって神経細胞に興奮をもたらすことが明らかになっているらしい.ケラチノサイトへの刺激がどのような脳活動を引き起こすのかは説明されていなかったが,いずれにせよ,古くから知られている機械受容器以外に,機械的刺激を受容するメカニズムがあることを知ったのは大きな収穫である.

それに加えて,皮膚が光刺激や音刺激に対しても応答することも興味深い内容であった.例えば,音楽を聴くときに耳だけでなく皮膚への刺激も重要な役割を果たしているらしい.本書では大橋力氏による民族音楽の知覚(?)に関する研究が紹介されていたが(大橋力氏の研究については別の機会に述べたい),電子ピアノとアコースティックピアノの違いも,皮膚感覚の違いによるかもしれないとと思った.自分は電子ピアノはいくら高級なものでも弾いたときに「弾き甲斐」がない感じがするのであるが,これは共鳴板をもたないために空気の振動としてのパワーが少ないためなのかもしれない(間違いかもしれないが...).

かつらとウィッグ

最近「かつら」のことを「ウィッグ」と呼ぶそうである.「かつら」は英語でwigなので,それを日本語として使っているということなのだろうが,個人的に発音しにくい難しい言葉である.

なぜこのような発音しにくい言葉を使って「かつら」という言葉を言い換えるのだろうか.勝手に推測するに,おそらく,「かつら」という言葉が「髪が薄い」ことを意味するので,それを口に出すのが恥ずかしいと思う人が多いためなのだろう.しかし,もしそうであれば,将来「ウィッグ」という言葉は「かつら」と同じ運命をたどることにならないだろうか.つまり「ウィッグ」という言葉が「髪が薄い」ことを連想させ,それが恥ずかしさにつながるのであれば,結局「かつら」のときと何も変わらないからである.

世の中ではこういった言い換え語がいろいろな場面で使われるが,このような言葉の賞味期限がどのくらいあるのか,気になるところである.

ヴァイオリンのレッスン日記 2020-1

今月からモーツァルトメヌエット

ポジション移動が多く音程が不安定.一人で練習しているときからなかなか安定しないと思っているが,先生と一緒に演奏するとそれが露わになるので気になって仕方がない.

今日のポイントは二つ.一つは三和音.ヴァイオリンでは3本の弦を同時にこすることができないので,三和音を基本的に重音’(2本の弦を同時に鳴らす)を連続して弾くことで実現する.和音(重音)の難しいといころは,左手で2本の指の位置をコントロールして正しい音程をとることと,右手をうまくコントロールして確実に2本の弦を同時に鳴らすことを同時にやらないといけないところである.今日の気づきは,重音を弾くときも,前回書いた「接触感」がやはり重要だということである.「2本の弦を同時にこすろう」とするとどうしても右手に力が入ってしまって音が不安定になってしまう.これに対して,2本の弦を同時にとらえたときの右手の感覚に注意を向けて,その感覚を感じてから弓を動かすようにすると,2弦を間違いなくとらえることができる.そうやって,最初の重音を引いてから,次に,1本の弦を支点として感じながら右手を右側に回して,もう1本の弦に触れる感覚をとらえると2番目の重音を間違いなく弾くことができる.ここでのポイントも,すぐに2つめの重音を弾きだそうとするのではなく,やはり2本の弦に接触している感覚を感じてから弓を動かし始めることである.

もう一つのポイントは,速いパッセージの弾き方.モーツァルトの曲なので,上下に音階風に走り回る箇所があるのだが,この部分,インテンポで弾こうとすると,右手と左手のタイミングがおかしくなることがよくあった.こういう場合は,まずは間違いなく弾けるゆっくりしたテンポで練習して少しずつテンポを速くしていくのがセオリーである.ただ,今日学んだことは,ゆっくりしたテンポで練習するときも,速いテンポで弾くときと同じ弓の量しか使わないということである.つまり,ゆっくりしたテンポで練習するときは,それにあわせて右手の動きをゆっくりさせる必要があるということである.とにかく,焦らずにゆっくりテンポを上げていくことにしよう.

 

ブログを始めた三つの理由

今日は,なぜいまになってぜブログを始めることにしたのかについて書きとどめておきたい.

第一の理由は,歳をとって記憶力が落ちてきたことである.いろいろなことを思ったり考えたりしたとき,以前はその中身をしばらくのあいだ頭の中にとどめておくことができたので,必要なときにすぐに思い出してその続きを考えたり実際に行動に起こしたりすることが難なくできた.しかし,近頃「あれ,以前に〇〇について考えていたはずだけど,あれは結局どうなったんだっけ」ということが増えてきた.以前から手帳やメモを使わずに生きてきたのだけれど,とうとうそれができなくなってきたということである.

ただ,これだけの理由であれば,わざわざブログに書かなくても手帳やノートに書けばよいことである.そこで,第二の理由になるが,同じメモをとるのであれば,だれかに読んでもらう形式で書いた方が頭が整理できるということである.

これは一般的に成り立つことだと思うが,ほかの人に説明しようとすると自分の考えていることが明確になるということはよくある.そこで,どうせメモをとるのであれば,外部に公開することを前提として,ほかの人に説明するようにメモをとると自分にとってもためになるのではないかというわけである.ほかの人に読ませられないようなあいまいな内容は,下書きの記事として保存しておけばよい.

加えて,第三の理由は,自分が考えたり思ったりしていることは,ほかの多くの人が考えたり思ったりしていることとかなり違うらしい(つまり,自分はかなり変わり者である)ことを最近つとに感じるようになってきたからである.つまり,自分が考えることはだれでも同じように考えたり思いついたりするものだとこれまでは思い込んでいたのであるが,どうもそうでもないらしい.というわけで,自分が考えたり思いついたりすることをほかの人に読んでもらった方が,もしかしたら,そういう人たちの中に「こういう考え方もあったのか」と思ってもらえるかもしれないと考えたのである.変わり者の考え方だから,あらぬ反感を買うことになる危険がないではないが,中には,記事をヒントに新しいアイディアが浮かんだという人が出てくるかもしれない.

エスカレータ

最近,いろいろな駅でエスカレータの増設工事をやっている.一方で,エスカレータや階段の前で人が列をなしているのを見かけることも多くなったような気がする.

具体的な数字を調べたわけではないが,ざっとした感覚では,エスカレータを設置すると同じ場所に階段があったときと比べて,同じ時間でさばける人の数は減るのではないか.

そう思う理由はいくつかある.一つは空間の効率がおちること.エスカレータは両側に枠やベルト設置のスペースがありデッドスペースが大きい(このことは,もともとあまり幅が広くなかった階段に1列乗りのエスカレータが設置されたときによく思う.残された階段スペースがとても狭くなるから).また,ステップの奥行は階段の奥行より広く,ステップの段数が階段より少ないのに,多くの人はエスカレータに1段飛ばしで乗る(前の人が立っている段のすぐ次の段に乗らずに,その次の段に乗る)ので,効率が悪い.これらの効果が相まってエスカレータでは階段よりも人を収容できる密度が低い(密度が低い方が安全になるのは確かだが).さらに,エスカレータを使うと階段を使うよりも一般には上り下りにかかる時間が長くなるので,単位時間あたりにさばける人数も減ることになる.いま,鉄道会社はエスカレータ上で歩くことを推奨していないので,もしエスカレータの上で全員立つようになると,ますます単位時間にさばける人数が減少することになる.

何よりも,エスカレータは上り下りが専用なので,階段のように乗客の数に応じた上りと下りの適応的な切り替えができない.電車から降りてホームから離れたい人が集中したとき,ホームへ向かうエスカレータがいくらがらがらでも,そのスペースを有効に使うことができない.階段だったら,同じスペースを上り下りで適応的に切り替えて利用できるのに,である.いままで階段だったところにエスカレータを設置すると,人の列が長くなるのは,このようなバッファ機能の喪失によって階段まで混雑するようになるからではないだろうか.

エスカレータを増設するなというわけではないが,階段の良さとエスカレータの良さのバランスをうまくとって設計してもらいたいところである.